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S-Fマガジン 2008年 12月号 [雑誌]S-Fマガジン 2008年 12月号 [雑誌]
(2008/10/25)
不明

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 宇野常寛氏と中森明夫氏が対談をしている。この記事を読んではじめて、これまで大塚英志氏が東浩紀氏に、政治語りについて、くどくど言っていた(正確には50代批評家の小言が増え始めた)理由がわかった気がした。[過去記事]
 そもそも、このあたりのサブカルチャー系の人たちが書くものが批評と言えるかというと、疑わしいもので、彼らが文壇を批判しているように、文壇も彼らの批評を「批評」と認めていない。そしてこういう流れになる。

中森:「言論というのは多分に政治的なものですよね」
宇野:「それは、東移行に位置する若手論壇の限界とも言えると思います」

中森:「批評はやはり必要だと思っていますか?」
宇野:「なくてもよいものだと思います。しかし、あったほうがおもしろく世の中を渡っていけるんじゃないんでしょうか」

 中森氏は、この世界に長く腰をすえているわけで、やはり大塚氏と同じような老婆心で言っているが、なんてことはない。東氏や宇野氏には、目的やイデオロギーがないと指摘、というより注意しているわけである。どれほど腐った既得権益亡者の論壇批評家でも、フェティシズムな文芸賞審査員にも、これまでは、確立させたいものをみんなそれなりにもって、確信犯的に動いて、とりあえず正しいとか悪いとかの価値基準はおいといて、権利獲得のためのツールとして批判があったはずである。
 9/11事件をきっかけに、高橋源一郎、中沢新一などが政治・権力という手あかのまみれの、でも今、必要な批評をしはじめた。サブカルチャーをフィールドとしていた宮台真二や大塚英志も、こうした政治性の必要に気づいているからこそ、天皇や憲法について語っている。
 だからこそ、80'、90'生まれの政治語りを知らない若者たちに、中森氏や大塚氏が、こうしてくどくどいっていたのか、と気づいたぼくは、今さらな話。
 まぁポリティカルになれと強制する時代でもないけれど、なくてもいいはずの批評をしている宇野氏が、佐藤祐哉の小説に危機を覚えて、義務感で批評しているっていうのも、あまりに個人的な話すぎる。(確かに佐藤祐哉の小説が三島章をとったときには、ぼくも苦笑いしましたが...)
 一方で、東氏は政治的無関心ではあるが、権力の暴走が技術的な管理社会につながる危惧を感じている。今、東氏が小説を書いているというのも、批評にむいていない、批評に政治性をもちこむことにバイアスを感じて、別のみちを模索しているのだろう。

 批評が異種混合格闘技とはよく言ったものだけれど、戦っている人が何かを賭けているほうが、読み手としてはおもしろいんだから。ここらへんで批評者にも、批評マニフェストなるものをつくってほしいな、っていうのは某番組の戦略か。


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